2-tacs


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【 BROWN by 2-tacs "SKAFER CAP" 】


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「skafer」という言葉をつくったのは20代の後半くらいだと思う。
今ではサーフ&スケートなんて言葉は当たり前だけど、僕がサーフィンやスケートに興味を持った10代のころはサーファーとスケーターの境界線がはっきりと分かれていた。
 
 

(SURF)

僕のサーフィンデビューは14歳だった。
母親の弟(叔父)はハワイでサーフィンをするほどの人で、僕はその人からサーフィンを教わった。
そういえば小学校二年生のとき、その叔父からハワイのお土産でTシャツをもらった。
そのTシャツは白地に襟と袖にネイビーのトリムが施されていて、真ん中にかっこいい強そうなトラのプリントが入っていた。
脳天がひっくり返るほどそのTシャツにしびれたが、当時の僕にはTシャツの襟ぐりから肩がひとつ出てしまうくらいに大きかった。
母親はそのTシャツを家では着ても良いが、外で着ることを僕に強く禁じた。
しかし、僕はTシャツをランドセルに忍び込ませて、家を出るとそのTシャツに着替えて学校へと向かった。
朝礼の時にみんなちゃんとした服を着ているのに僕だけが肩をひとつ出していて、なんとも誇らしい気分になったのを覚えている。
いま思うと、これが僕のファッションへのファーストコンタクトなのかもしれない。
 
叔父さんは千葉でレストランをしていて、僕は中学二年生の夏休みをほぼここで皿洗いのアルバイトをしながらサーフィンを教えてもらった。
最初の海は千倉だった。
離岸流に流されているのを気がつかずに、ずいぶん沖まで流された。
そのときはこっぴどく叱られて、正直こっちも腹が立ったけど、これも子を持つ身になってみるとよくわかるようになった。
でも、中学二年生って自分が死ぬとか、そういうことを全くイメージできない年頃なんだよね。
 
 

それから20年以上もサーフィンを続けているけれど、僕はサーフィンに対して上達という概念が消えてしまっている。
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上のGIFは波のメカニズムを表したもので、これを見ると水が動いていないことがよくわかる。
波に乗るということは水によって移動しているのではなく、波動というエネルギーが水に伝わり移動しているのだ。
波のピークを見つけてそれに乗り、眩しく光る斜面をグライドする。
そして、なるべく波打ち際まで乗り継いで、その波動が最後には弾けて無くなるのを見届ける。
かっこよく言うと、僕のサーフィンはその波動との一期一会を楽しむ遊びなのだ。
 
 
(SKATE)

そして、スケートボード。
まず、サーフィンとスケートボードの相違点について。
自然を介して遊ぶサーフィンに対して、スケートボードはアスファルトがないとはじまらない、全く異なるとても都会的な遊びだ。
僕は高校の3年間をこの遊びに費やした。
友達と僕の家でスケートのビデオテープが擦り切れるほど観ては、外に飛び出し夕方から空が白々としはじめる朝までトリックの練習をしていた。
上手い人たちがいると聞くと、新宿(ジャブ池)、原宿(アークティーズ前)、池袋(東池袋中央公園)と、どこにでも行った。
このときに僕は多くのスケーターと知り合って、彼らの多種多様なスタイルを目の当たりする。
オーリーがとにかく高い(背が高い人多し)、トリックをマシーンのようにこなす(小柄なニュースクーラー)、怯むほどの高さのステアを鬼プッシュでメイク(ドカン系)、と、ここでは書ききれないくらい様々なスタイルがあって、みんなとにかくクールだった。
その当時スケーターはファッションとしても注目されだしていたが、コアなスケーターたちはスケートもしないファッションだけの連中を「ポーザー」と呼称し、馬鹿にしていた。
いまや街中に「ポーザー」が溢れている現状をみると、ずいぶん時代が変わったなと思う。
彼らの目利きも半端なくて
「あの駅のハンドレールはいけそうだ」
「あそこの縁石は調子良さそうだから、ワックス塗っておいた」
と、街全体がスケートスポットとなっていて、いつしか僕の視点もそのようになっていた。
スケートボードは街で仲間と出会い、街で遊ぶ「ストリート」という概念を僕に植え付けてくれた。
 

 
 
 
 
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クラウンはウールメルトン、ブリムはカウレザーの異素材を組み合わせ
"BURGUNDY"にはキャメル、"OLIVE"にはチャコールの配色にした
6パネルのベースボールキャップ。
 
 
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サイズは"One Size Fits All"
 
 

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No. B16-C001 "SKAFER CAP"
Crown: Wool 100%
Brim: Leather
Col: Burgundy( O.S.F.A. ) , Olive( O.S.F.A. )
Price: ¥13,000-(Plus tax)
 
 
(SKAFER)

サーフィンとスケートは同じ横ノリ系のジャンルとして括られることが多いが、じつは全く違うカルチャーだというのが僕の見解だ。
サーフィンとスケートを通して、自然と都会を行き来して遊ぶことを学び、そのふたつのスタイルを混ぜて成熟した新たなスタイルを僕は求めている。

(H)

行きましょう、山へ。 ザイオン国立公園編】

みなさんこんにちは。
お元気ですか?
僕はザイオン国立公園へ行ってきました。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
「本間さん。アウトドア・リテイラー・ショウ(以下OR)に興味ありませんか?」

と聞かれたのは去年の年末だったか今年の初めだったかはよく覚えていないが、アウトドアと名のつくものに興味がないわけがないので、内容を聞いてみると、そのORをみてから、ある撮影をしてほしいという仕事の依頼だった。

もちろん二つ返事で諾了する。
 
OR初日に各ブースをまわるが、聞きしに勝る広さで圧倒される。

やはり世界一のアウトドア大国と感心する一方で、アウトドアとは自然と向き合うための行為なのか、ギアと向き合うための行為なのかと、垂直でも水平でもない、相変わらずの斜め思考に囚われてしまう。

僕は自作した「レイウェイ」のバックパックを背負いブースをうろうろしていた。

もし声をかけてくれる人がいたならば、きっとその人と仲良くなれるだろうと淡い期待を抱いていたが、そんな人はどこにもいなかった。

人の背負っているバックパックなど気にかけていたら、仕事にならないくらいの物量が目の前にあって、その情報処理だけでも結構な神経を要する。

みなさん、遊びじゃないってことね...

では、我々はこの場所をあとにして本格的に物見遊山に洒落込もうと、グレートソルトレイクにあるアンテトープ島に向かった。
 
 
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グレートソルトレイク。

見渡す限り塩。

干上がった塩の大地を裸足で歩くと足の裏から汗がダクダクと出てきて、踵の角質が取れてツルツルになった。

ザクザクと塩の結晶を踏み足裏も刺激されて、なんとも気持ちがいい。
 
塩は僕たち人間にとって、とても大切なものだ。

腐食の原因は酸である。

食べ物は酸化すると酸味を増して腐食していく。

腐食を防ぐのは酸素にあてないことと、塩(アルカリ質)を混ぜることで中性にすること。

梅干しが腐らないのは塩を加えることで酸を抑えているからだ。

人間もナマモノなので原理は一緒だが、塩分を控えたほうが健康によろしいというのが多くの方たちの認識。

塩分を多く取るとコレステロール値が上がり、血圧も上がる。

それは塩の種類に問題がある。

天然塩ではなく、安価に出回っている精製塩(塩化ナトリウム99%以上)を摂取すると血管の中で細かな再結晶をして、その結晶が血管を傷つける。

その傷を修復するためにコレステロールが大量に血管に留まり炎症を起こす。

ようするに少々高くても真っ当に仕事をされている方たちの正しい塩を使いましょう、ということ。

この場所へ来て、僕は今年初めて挑戦している梅干しのことを思い出した。

出発前の天気が良くなくて、まだ干せていない梅。

帰国後すぐに干した。

味は申し分なくうまかった。

梅干し。完全にノーマークだった。

そして完璧なる食品。

この原稿も梅干しをかじりながら書いている。

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そしてあくる日にザイオン国立公園へと旅立つ。

実のところ、昨日の時点でザイオン国立公園に向かうつもりはなかったが、いくつかの偶然が重なり

「これはもう行ってみるしかないね」

と往復600マイルの旅が始まる。
 
ここで言ういくつかの偶然を書き出すと長文になってしまうので割愛させてもらうが、なんとなく掻い摘んで言うと「旅から生まれる旅もある」ということ。

もちろん予定通り事を運びたいのだが、旅先ではこれがなかなかうまくいかない。

それを柔軟に受け入れることが出来る人は旅の達人。

旅の達人とはトラブルが起きたときに真っ当な対処法がすでに頭の中にあるにもかかわらず、さらに高みを目指すことが出来る人。

トラブルというマイナス要因に弾みをつけて、それをプラス要因に変えてしまう独自のメタフィジカルを持つ人物。

僕は以前そのような人たちと旅をする機会を得て様々な経験をさせてもらい、いまの僕の旅がある。

僕は普段から自宅から駅までの道のりもちょくちょく変えている。

帰り道も一つ手前の駅で降りてぶらぶら帰るなんてことはざらにある。

しかし、道の先に救急車やパトカーが停まっていると別の道を歩く。

江戸っ子特有の野次馬根性はまったくなく、むしろそういった道は避けている。

山でもなんとなく嫌な感じがしたら、すぐに予定変更。

1日早く下山して長野の友人の家を訪問するなんてこともよくあることだ。

なんでだろう?と自分でもよく考えるのだが、これだけはよくわからない。

でも、わからないからこそ大切にしている僕だけの感覚の聖域でもある。
 
 
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ザイオン国立公園。

「ウワァ...スゲェ...」

こういう場所に来たときは、つくづく自分のボキャブラリーのなさに情けなくなってしまうが、どんなに辞書を引いてもやっぱり自分の身の丈にあった適当な言葉が見つからない。
 
結局おいらの文学なんてものは「ウワァ...」と「スゲェ...」と「ヤベェ...」からなるモノなりと感じた。
 
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大地と風と水が1500万年かけて創り出した造形。

ぼーっと眺めていると自分の一生がどれだけ短くて儚いかが身に染みる。

到底に及ばない圧倒的な時間を見せつけられて、あらゆる感情が炭酸水の泡のように生まれては弾けてなくなる。

普段だったら明らかに方向性の違う様々な感情の粒が、頭の中でパチパチと音を立てている。

ザイオンの有する時間に対しての嫉妬や悲しみ、それを知ったことによる、ある種の諦めにちかい喜びのような感情も同時に湧き上がる不思議な状態。

僕は自分の心が泡立っているような感覚を、この場所ではじめて覚えた。

草木はもちろん、岩壁や足元に転がる小さな石ころでさえ生命を宿しているかのように思えた。
 
 
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(photo by masayuki nakaya)
 
いろいろ見てきたつもりだったけど、やっぱり地球はひろい。

さて、次はどこに行こうか。
(H)
 
 
 

白いTシャツと小麦色の肌の関係性

 
白いTシャツの定義は当たり前だけど、白いこと。
 
そして、それを着ている人物は自然の太陽の光をたっぷりと浴びた小麦色の肌をした人物が好ましい。
 
青っ白い腕だと、まるで病院の消毒液の匂いがしてきそうで、なんとも辛気臭い。
 
真っ白なTシャツの袖口からのぞく、日に焼けた小麦色の腕。
 
これは時代がどんなに変化しようとも、唯一変わらない価値観なのだ。
 
ちょっと言い過ぎだろうか...
 
いや、そんなことはない。
 
その証拠にwhite(白い)の語源はゲルマン諸語に共通しており、アングロサクソン語hwit(明るい、輝かしい)を経て成立している。
 
形容詞のhwitはのちにhwaete(穀物)という名詞を生み出す。
 
これは(明るく輝かしく)実る穀物を見て、生み出された言葉なのだろうと想像できる。
 
このhwaeteを経て、のちに英語のwheat(小麦)を成立している。
 
つまりwhite(白い)とwheat(小麦)は同じアングロサクソン語hwitからなる同系語なのだ。
 
この文脈からも、やはり白いTシャツと小麦色の肌のスタイリングは永遠の組み合わせなのだと個人的に思っている。
 
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BROWN by 2-tacsでは、2本の綿糸をウール用に開発された機械で撚り合わせることによって仕上げた柔らかくしなやかな双糸を使用し、天竺を織りあげている。
 
本来ならばこの製法でもっと薄く編むことも可能であり、そうすればより一層のしなやかさが楽しめるはず。
 
しかし、そうなると「白いTシャツ」としての絶対的な要素の一つ「Tough」が損なわれるので、結果このオンスに収まったというわけ。
 
この「Tough」という言葉が、アパレルを作るうえでとても大切なのだが、最近のアパレルはこの言葉を軽視している。
 
スタイルやアウトラインばかりを重要視しすぎて、一度洗うと別の物になってしまう。
 
ほつれる縫い目や、すぐに取れるボタン。
 
そんなものが本当に良いものなのか?
 
断言します。
 
アパレルに限らず、生活に関わるすべてのものは長く付き合えるものが良いものだ。
 
 
むかしむかし、その昔、アパレルとは専業のためにあった。
 
大工には大工の服、ペインターにはペインターの服、農夫には農夫の服、釣り人には釣り人の服、ハンターにはハンターの服、炭鉱夫には炭鉱夫の服、軍人には軍人の服、そして貴族には貴族の服。
 
そういう本物の服を見ていない人は、古着屋に行きなさい。
 
君がまだ生まれていない、アパレルがアパレルであった時代の良い服が、まだまだたくさんあるよ。
 
それらは現代の服にはない雰囲気をもっている。
 
それを買って袖を通してみると、君はきっとこう思う。
 
「なんて機能的なんだろう...」
 
そう。
 
アパレルは元来ファンクショナルなものであった。
 
ファンクショナルはアートになる。
 
それを身に纏う喜びを、君に知ってほしいんだ。
 

このTシャツは着て洗って、着て洗ってを繰り返すたびに君の体に馴染んでくる。
 
海へ山へと着ていくたびに、君の肌は少しずつ小麦色になっていく。
 
このTシャツと一緒に遊べば遊ぶほど、きっと君はこのTシャツを好きになる。

(H)
 

行きましょう、山へ。 富士山編】

みなさん、こんにちは。

お元気ですか?

僕は富士山に行ってきました。
 
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富士山。

富士山。

高速道路からの富士山。

新幹線からの富士山。

いつでもどこからでも僕たちは富士山が見えると声にしてしまう。

「あ、フジサンだ」と。
 
 
もう13年も前に初めて山に興味を持ちだしたときも、やっぱり最初に登った山は富士山だった。

そのとき一緒に登ったパートナーは山に憑かれて仕事をやめてチベットへと向かった。

当時に流行った片道切符だけの長い長い旅。

着々と旅の準備を進めている彼のことが、僕はうらやましかった。

彼について行きたかった。

でも、僕にはできない理由がいくつかあった。

彼は元気にやっているだろうか。

まだ山はやっているのだろうか。
 
 
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富士山は日本人なら一度は登ってみたい山のひとつ。

日本に富士の名のつく山は360以上あり、北から蝦夷富士(羊蹄山)、津軽富士(岩木山)、南部富士(岩手山)、出羽富士(鳥海山)、会津富士(磐梯山)、信濃富士(黒姫山)、諏訪富士(蓼科山)、伯耆富士(大山)、讃岐富士(飯野山)、豊後富士(由布岳)、薩摩富士(開聞岳)と、ざっと調べただけも多くの地域に富士の名のつく山があり、これだけでも古来から富士山への人気が伺える。
(余談だが僕の地元の品川神社にも品川富士という富士塚がある)

これら富士の名のつく山の特徴としては安山岩という火山岩によって形成されたコニーデ(成層火山)ということ。

もう少し深く突っ込むと、溶岩はアスピーテ、コニーデ、トロイデと3つに分類することができて、これらは溶岩の粘度を示す。

もっとも粘り気のないアスピーテの溶岩は盛り上がりは少なく、広く裾野を伸ばすのが特徴でおもに玄武岩がおおい。
(代表的な山は山形県の月山)

次に粘性が高いのが安山岩で、これが何度も噴火を繰り返し溶岩層を重ねて山体を形成しているのがコニーデ。

最も粘り気の多い溶岩(石英安山岩など)が噴出すると噴火口を中心に盛り上がって急勾配な釣り鐘を伏せたような山体になる。

これらがトロイデと呼ばれる火山。

個人的な意見を言うとアスピーテは田舎の里山のような優しい雰囲気、逆に切り立った山体のトロイデは登山家が好むような険しい印象。

その中間にあたるコニーデの富士山のような山体を多くの人たちが好んでいるのが、なんとも日本人らしい。
 
 
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富士山の特徴は何と言っても標高が日本一というところにあると思うが、富士山が今も昔も愛されている理由は、長く長く引かれた裾野の美しさにあるのではないだろうか。
 
高く聳え立つ山は多くあるけれど、見たときにこれだけ安心感を与えてくれる山を僕は他に知らない。
 
やっぱりこの山は僕たちにとって特別な山なんだ。
 
 
そしてまた旅の途中、高速道路で富士山が見えたときに僕は助手席の誰かにこう言う。
 
「あ、フジサンだ」
 
 
 
さぁ、つぎはどこに行こう。
(H)


【D.I.Y.COASTER】


最近アトリエのあり余る段ボールの群れを見かねて、こんなものを作った。
 
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仕事で再利用できそうな段ボールはとっておくのだが、それにも限界があり残りは資源ごみへ。
というルーティーンに対しての少々の反抗心からの家内制手工業である。
作り方はいたって簡単。
 
<D.I.Y.COASTERの作り方>
1 段ボールのある程度きれいな部分だけをナイフで切り取る。
2 丸く形を墨引きして糸ノコで断裁する。
3 切り口を整えて削り屑を払う。
4 スタンプを押して好みのパッケージを施す。
 
ちなみに5枚セットで250円也。
これを安いと思うか、高いと思うかは貴方次第。
正直に言うと自分でも高いのか安いのか、わかりません。
これに関しては物を売っている感覚はなく、どちらかというとアイデア...いやいや姿勢を売っているのです。
従来、物を販売することはその物の品質を売るということになるが、姿勢を売るとはどういうことなのか。
 
たとえば、
<A社>「当社の製品は厳選された天然素材を一流の職人によるオールハンドメイドで製作されております」
<B社>「当社では○年間品質を保証しております。気に入らなかったら、返品交換もちろんOK、とにかく一度ご連絡を!!」
と、くるのが商売としては当たり前で、当然消費者としては<A社>と<B社>の商品の「品質」と「値段」を比較し精選しているわけだが、さらに両社の商品への「姿勢」も重要な判断基準の一つとなっている。
しかし、その「姿勢」に対するインフラや宣伝にもコストがかかり、そのコストは製品の値段に反映されているので、消費者は知らず知らずのうちに商品と一緒に「姿勢」も買っているということになる。
 
たしかに優れた製品を買うと自分の生活がワンランクアップした気分になって、選んでいるときも楽しい。
仕事をして得たお金で夢にまで出てきた大きなものを手にいれた時の喜びはなにものにも代えがたい。
「俺もとうとうここまで来たか...」
と、しみじみと自分を褒めてやりたくなるが、物事をまっすぐに見れない天邪鬼な自分もいて、良い商品を買い揃えることがはたして本当に素敵な生活なのだろうかと、考えてしまうこともある。
 
そもそも生活とは「素人」を楽しむものであり、仕事とは「プロ」としての作業や判断が求められ、その双方は交わらないことが多い。
その理由は生活においての作業は「自分たちのため」の作業であり、仕事における作業は「お客(自分たち以外の第三者)のため」の作業であり、きっと同じ作業をしていても「生活」の作業と「仕事」の作業とでは、緊張感というか気の持ちようが違うのではないか。
 
最近こんな話を聞いた。
それは「主婦のカレーとシェフのカレー」と言って「主婦のカレー」はその日の冷蔵庫の残り物によってカレーに入る具材と味が変わってくるが、「シェフのカレー」は毎日安定した味と具材を提供しなければならない。
カレーでも「生活」と「仕事」では作業の内容がだいぶ変わってくるという、なかなかおもしろい話だった。
 
このように生活の自己、仕事の自己は別々のものであり、その自己を複数組み合わせることによって自分(自を分ける)という多面性人格が形成されている。
これは決して悪いことではなく、むしろ無理やり一括りに一面体(球体?)として自分を形成することのほうが、なにかしらの自己を否定せざるを得なくなり危険である。
これが可能な人は、きっと生まれたばかりの赤ん坊か並外れた強い意志を持つ仙人のような人物に違いない。
赤ん坊はお腹がすいたりオムツが汚れると泣いて親に知らせる。
よく「赤ん坊は泣くのが仕事」と言うが、これは泣くという自己表現が生活における様々な欲求を満たすための、彼ら(彼女ら)なりの仕事ともみてとれるからだろう。
仙人は標高の高い山の奥地に住み(これは僕の勝手な想像だが)、自分が食べれる分だけの菜園をもち、たまに狩りをしてたんぱく質を補い、あとの時間は深い瞑想をして清らかな時の流れを見つめて暮らしている。
極論を言うと生活が仕事、仕事が生活ということは金銭を必要としない完全自給自足(現代社会からの離脱)を意味する。

 
少なくともいまの僕には完全自給自足は無理そうなので(ちょっと憧れるけど)、自然生活者が自然から数多の恩恵を受けながら生活をしているように、都会生活者が都会からの恩恵をゴミという形で拝受しただけの話だったりする。(そういう姿勢の商品なのです)
(H)

D.I.Y.COASTER ¥250-(TAX IN)


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